トヨタの車づくりを変えた1台のクルマがある。それが「ラクティス・車いす仕様車(スロープタイプ)タイプⅡ」。2005年から2016年まで販売されていたウェルキャブ(福祉車両)で、車両後部に取り付けたスロープを使い、バックドアから車いすのまま乗り込み、助手席に近い1.5列目に乗車することができた。

開発を担当したのは、トヨタウェルキャブシリーズの開発責任者である中川茂。だが、その実現は設計から生産まで課題が多く、苦難の連続であった。ここでは、ウェルキャブに対する想いを、開発エピソードを交えて紹介していく。

母と子どものあまりにも厳しい乗降の実態

母と子どものあまりにも厳しい乗降の実態

今から約20年前、中川は身体障がいのある子どもが通う特別支援学校へ足を運んでいた。ウェルキャブを必要とする方が、実際にどのように車を使っているのか、またどのような機能が必要なのか、確認するためである。

そこで目にした光景は意外なものだった。まず、駐車場にウェルキャブがほとんど見当たらない。いわゆる標準車ばかりだ。また特別支援学校の駐車場といっても、駐車車両の両脇にゆとりがない一般的な駐車場で、これでは助手席側ドアを全開にできないばかりか、車いすでドアのそばまで近寄れない。

母親はクルマの後方に車いすを止め、車いすから子どもを抱き上げ助手席側ドアまで歩き、半開きのドアから子供を助手席に座らせる。雨の日は母親がバスタオルを頭からかぶり、子どもが濡れないようにして乗せていた。

この乗り降りが日々の登下校で繰り返される。あるいは休日の外出でも繰り返される…。幼児と違い、体が大きな小学生だけに母親の両腕にずっしりとした重みがかかることは想像に難くないが、母親は「この方法しかないから仕方がない」という。

なぜ助手席なのか。その答えは、重度の身体障がい児は首の力が弱く、頭が前に傾くと自力で戻すことができないことにある。頭が前に傾いたままでは呼吸ができなくなり、介助者が頭の位置を戻してあげないといけない。後席の位置に車いすで乗車すると、運転席に座る保護者から目も手も届かないので、常に運転席に近い位置に乗せなければいけないのである。

運転席から手の届く1.5列目乗車
運転席から手の届く1.5列目乗車

当時、ファンカーゴをベースに、後席の位置まで車いすのまま乗り込めるウェルキャブはあったが、それではこの親子のニーズには合っていない。

そこで中川は、運転しやすいコンパクトカーで、スロープを使ってバックドアから車いすのまま運転席の近くに乗り込めるウェルキャブが必要と考えた。一刻も早く、母親たちの負担を軽くできないか、そんな想いだった。

それは新車開発を後戻りさせるような提案だった

中川が目を付けたのは、当時、開発が進められていた新型車「ラクティス」だった。すでに外形デザインまで決定していたが、設計図を確認すると問題があった。バックドア開口部の寸法が車いすのままで乗り込むには4cm低いのである。頭を前にわずかに傾ければ乗り降りできないこともない。だが、乗り降りのたびに頭を傾けるようなクルマでは多くの人がやはり不便だろう。

悩んだ末に出した結論は「やはり、バックドア開口部の寸法を広げてもらおう」。商品開発の現場に身を置く者として、この段階での寸法変更の提案が、いかに「非常識なこと」であることは重々承知していた。

初代ラクティス ルーフ断面

バックドア開口部を4cm高くするということは、ドアの寸法変更に留まらず、クルマ全体のデザインに影響する。クルマには天井を支える柱(ピラー)が何本かあるが、車両後部が高くなるということは全てのピラーの寸法や角度が変わり、つまりデザインのやり直しを意味する。

中川の依頼に、やはり、デザイン関係の実務者たちは仰天した。「今、ここでデザイン変更することでラクティスがたくさん売れるようになるのか?」。ラクティスはひと月に1万台規模の販売を想定したクルマであり、ウェルキャブはひと月の販売が数百台レベルのクルマである。数%のクルマの為にデザイン変更は必要なのか…。「屋根を4cm高くするなんて、とんでもない」「スタイルが恰好悪くなり販売にも影響する…」等々、長い時間を費やして進めてきた新型車の開発を後戻りさせるような提案は、到底受け入れてもらえなかった。

しかし、特別支援学校で見た大変な乗降風景を思い出すと、容易に提案を諦めることはできなかった。

実務者一人ひとりに説いて回った

中川は、まずデザインの実務者一人ひとりに、障がい児を持つ母親の生活ぶりを聞いてもらい、子どもを抱きかかえて助手席に乗り降りする親子の写真を見せながら「こういうクルマをトヨタが出すことで、この母親の生活が楽になる」と説いて回った。

説得した相手は10人以上いただろうか、そのうち賛同者が一人二人と出始め、やがてそれは実務者全員に広がった。そして最後は、「デザインのプロとしてかっこよく屋根を4cm上げますよ」とまで言ってくれた。

次に説得したのは担当役員だった。ラクティス開発に関わる役員は7人。しかし、役員の反応は半々に割れた。実務者と同じように「トヨタでなければ、そういう人たちを助けられない」と賛同してくれた役員もいた一方で、デザイン変更による販売台数の低下を懸念し、即座には賛同できないという役員もいた。

7人の役員のうち、キーとなったのが国内営業担当役員とデザイン担当役員だった。国内営業担当役員は、その意義をすぐに理解してくれた。そして、最後はデザイン担当役員。ここで賛同が得られれば、デザイン変更のGOサインがもらえる。

祈る気持ちでデザイン担当役員を訪ねた。中川から一通り説明を聞いた役員はひとこと「やろう!」と言ってくれた。「国内営業担当役員が事前に『屋根を4cm上げてもやりたい』と言ってくれたようで、私が訪ねた時デザイン担当役員の肚は決まっていたようでした」と中川は当時を振り返る。ここで開発陣が一つにまとまり、ラクティス・車いす仕様車を作り上げることになった。

もう一つの“常識破り”に挑む

中川がこのラクティス・車いす仕様車(スロープタイプ)で、もう一つ実現させたかったことは、改造費を抑えてお客様が求めやすい価格に近づけることだった。

それまで車いす仕様車(スロープタイプ)は、完成したベース車を別の工場に持ち込み、後輪から後ろの床を改造していたが、大半が手作業で、人件費や工数がかかり車両本体の価格を引き上げていた。これを標準車と同じ生産ラインで作ることができれば、工数も減り価格上昇が抑えられる。いわゆるインライン生産と呼ばれるものだ。

インライン生産をするには、スロープ車専用のプラットホーム(車体の下半分のアンダーボディ)の開発が必要となるが、前提条件に月数万台の生産が相場とされる中、数百台しか生産しない車両専用のプラットホームの設定は常識から大きく外れており、自動車メーカーは積極的に取り組んではいなかった。

モノづくりの心意気は一緒

中川はラクティスを生産することになっていた高岡工場(愛知県豊田市)の生産管理、生産技術といった部署へ説明に赴いた。ラクティスを造る生産ラインでは、既に複数のモデルを生産しており、そこへラクティス・車いす仕様車を追加することは物理的にも困難で、やはり驚きをもって迎えられた。

「将来はこういうクルマが増えていきます」「ライン生産はトヨタでしかできません」と、中川はデザイン現場で行ったように、生産を担当する各部署の実務者を中心に根気よく説明をして回った。すると、賛同した実務者たちが、インライン生産化に向けて各所への説得に動き出してくれたのだった。

中川も説明を続けていたが、彼の知らないところで小さな声が大きなうねりに変わり、賛同者が徐々に増え始めた。最初に足を運んでから一年が過ぎた頃、ついに役員の承認も得られ、ウェルキャブのインライン生産化に向けた本格的な検討に入った。こうなると、物事は一気に加速する。開発と生産という違いがあるものの、モノづくりを通じて「困っている方々を助けたい」「我々がやらなくてどうする」という心意気は同じだった。そこから、少量のライン生産が実現したのである。

トヨタウェルキャブシリーズ 開発責任者 中川茂

ラクティス・車いす仕様車(スロープタイプ)発売後、1通の手紙がトヨタ自動車に届いた。そこには「ラクティスのサイズ、価格がぴったりです。本当に必要なお客様の元へ届けたいという開発の思いを知り感激しました」と綴られていた。嬉しくなった中川はお礼の手紙を書き、そこからお客様との交流も生まれた。

ご存知の通り、現在ラクティスというモデルは生産されていないが、車いすのまま1.5列目に乗り込めるタイプのウェルキャブは、シエンタに引き継がれている。シエンタはラクティスと同じバックドアの寸法を前提に外形デザインが進められた。また、車いす仕様車(スロープタイプ)をはじめライン生産されるウェルキャブが増えつつあり、ラクティス・車いす仕様車の誕生が、ウェルキャブの進化の過程で大きなターニングポイントとなったことは間違いない。

「Mobility for All」すべての人に移動の自由と楽しさを提供するため、今後もウェルキャブは進化を続けていく。

トヨタウェルキャブシリーズ 開発責任者 中川茂
ウェルキャブ オフィシャルページ
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