1954第1回全日本自動車ショウ
展示車両267台の内、乗用車はわずか17台。商用車需要が高いことが伺える。
1953年(昭和28年)まで日刊自動車新聞主催で開催されていた「自動車展覧会」が発展的に解消し、「全日本自動車ショウ」として新たに誕生した。
1955第2回全日本自動車ショウ
小型4輪トラックが登場したことにより、純国産による本格的な乗用車時代の到来と、トラックの3輪から4輪の時代への幕開けを伺わせた。
1956第3回全日本自動車ショウ
1955年5月に通産省(当時)が発表した国民車構想の影響により、商用車から乗用車に人気が移った。この回より、従来から各社が個々に展示していたのを、乗用車、トラックなどの車種別に展示する方法に改められた。
1957第4回全日本自動車ショウ
ショー事務局が「自動車なんでも相談室」の看板を掲げるなど、単なるショーから実質的な商談の場として変わりつつあった。
1958第5回全日本自動車ショウ
この年、国産乗用車がアメリカに本格輸出をはじめた影響からか、ショーにも外国人の姿が目立つようになった。会場が日比谷公園から後楽園競輪場へ移り、開催時期も春から秋に変更した。
1959第6回全日本自動車ショー
乗用車に新境地を見出す小型高速ディーゼルエンジンを出展し、人気を呼んだ。会場が晴海国際貿易センターへ移り、室内展示になった。
1960第7回全日本自動車ショー
この年、国内初の外車ショーが開催。貿易為替の自由化など、日本の自動車産業を取り巻く環境が大きく変わろうとしていた。
1961第8回全日本自動車ショー
消費革命が急速に進展し、スポーツカーなどが登場。
トヨタでは「トヨペット スポーツカー」が注目を集めた。各社も1000cc以下の乗用車が意欲的に出展された。
1962第9回全日本自動車ショー
入場者数が100万人を超え、クルマへの興味が高まってきたことが伺える。出展車両もスポーツカー、オープンカーが人気があり、2年後に迎える貿易の自由化を前に各社も意欲的に出展していた。
1963第10回全日本自動車ショー
乗用車中心のショーへ変化。
トヨタは国産初のV8エンジンを搭載した「クラウン エイト」や、「クラウン」「コロナ」「パブリカ」のコンバーチブルを出展し、豪華さと軽快さを調和させた展示となった。