2016年10月25日
奥平 総一郎(10・11代目カローラ開発責任者)
私がトヨタに入社したのは1979年ですが、初の担当は機能部品の設計でした。自分の担当した部品が、競合する他のクルマに勝てるようにと、無我夢中で取り組む日々でした。それらの部品の中には当然カローラのものもあり、4代目カローラの主査をつとめた揚妻さんからは、色々なご指導をいただきました。カローラは、エンジニアとしての気持ちに火をつけてくれた1台だと思います。
10代目カローラの世界同時立ち上げチャレンジ
10代目カローラの開発責任者を任命されたときは、やりがいもありましたが、大変なプレッシャーを感じました。年間販売台数が140万台を超え、世界140か国以上で販売していたカローラは、トヨタの中でも非常に大きな存在でしたからね。
開発のスタートに先だって、何百人もの関係者を前に開発計画を説明する機会があったのですが、その場で私は「カローラが一番であり続けるために、一番売れるクルマをつくります」と宣言したんです。その言葉には、自分を奮い立たせる意味もあったんです。
10代目の重要な課題のひとつは、生産の立ち上げを世界同時に行うというものでした。9代目では世界各地のカローラが新型に切り替わるまで2年間かかっていたんです。それを同時にスタートさせようというわけです。これは想像以上に大変な仕事でした。調達レイアウトをはじめ、徹底的に議論をしなければならない問題が山積みでした。生産技術や工場、調達のメンバーなど、みんなで集まっては喧々諤々のやり合いです。特に工場長とは何度も議論しましたね。今にして思えば、みんなよくついてきてくれたなと思います。本当に感謝ですね。
「世界のカローラ」をつくるということ
世界販売のカローラは、24時間、どこかの国の人が必ず起きている。朝は北米スタッフと、夜はヨーロッパのスタッフとテレビ会議という調子です。もちろん地域ごとの担当者がいるんですが、必要なことがあったときに自分がいなければなりませんから、昼も夜もないという忙しさでしたね。
世界各地のカローラユーザーとお会いできたのも、思い出のひとつです。色々な発見がありました。たとえばパキスタンでは、「カセットデッキは絶対に残して欲しい」という要望が強かった。その理由を訊ねてみたら、車内でコーランのカセットテープを聞くんだそうです。ああ、それじゃカセットは廃止できないぞと思いましたね。ブラジルでは、カローラは高級車として位置付けられていましたから、防弾仕様に改造したいというご希望もありました。世界各国、それぞれの地域でカローラに対する考え方や、使い方の違いがあるんです。お客様の声は、とても勉強になりました。
そうそう、世界各地の環境や要望に合わせ、エタノールを使うFFV(フレックス・フューエル・ビークル)のエンジンの開発や、天然ガスを使うカローラの開発なども経験しましたね。それぞれの国に合わせたさまざまなチャレンジができるのは、カローラならではのことです。
カローラはともに歩んできた特別な存在
エンジニアとしてではなく、1ユーザーとしての思い出もたくさんあります。私がトヨタに入社して最初に買ったクルマもカローラでした。4代目のハードトップです。結婚後はクーペを買って、子どもが生まれてからは5代目カローラの5ドアリフトバック。家族を乗せて、リフトバックに荷物と寝具を詰めて、夜中の長距離を走ったりしましたね。懐かしい記憶ですね。
私にとってのカローラとは、クルマづくりの物差しであり、すべての判断基準のベースとなるものです。と同時に、自分と家族の成長を実現し、いつも生活に寄り添ってくれたクルマでもあります。やっぱり特別な存在ですね。50周年を迎えられたことは、本当に感慨深いです。これからもこの歴史をさらに伸ばして欲しいですね。いつまでもベストセラーであり続けてもらいたいです。
奥平 総一郎(10・11代目カローラ開発責任者)
1979年トヨタ自動車入社。ワイパーやドアなど機能部品の設計を担当した後、米国駐在を経て、1995年からFR(フロントエンジン・リアドライブ)のプラットフォーム設計を担当。1999年に製品企画に移り、「プログレス」と「ブレビス」の開発責任者に就任。その後、サイオンブランド「xA」の開発を経て、2003年からエグゼクティブ・チーフ・エンジニアとして10代目カローラの開発責任者に就任。2008年に常務役員就任後、東富士研究所所長、専務役員・技術開発本部長を経て、現在はトヨタ自動車研究開発センター(中国)有限会社取締役副会長兼社長、および中国・アジア・オセアニアのチーフテクニカルオフィサー。