2016年10月24日
吉田 健(9代目カローラ開発責任者)
転換期にあった9代目カローラ
私が担当した9代目の開発がスタートしたのは、バブルの崩壊後で、大衆車や高級感という概念が混沌とし始めていた時代でした。カローラの存在意義も問われ、車名を変えてはどうかという議論もありました。また、トヨタの海外生産も増えつつあり、それまでは日本の市場を中心としていたカローラも、さらに海外へ目を向ける必要があるという時期でした。
そんな状況を踏まえ、9代目の開発で目指したのは、過去のカローラからの脱却でした。カローラの伝統をしっかりと踏まえながらも、そこに束縛されることなく、新しい時代のニーズに合うカローラを具現化する。そのためにゼロから出発しようと決意したんです。
最大のミッションは、世界中での販売を成功させること。中途半端なプライドや見栄は捨て、全力で取り組もうと誓いました。
徹底的に取り組んだ「エクセレント・クオリティ」活動
色々な苦労がありましたが、とりわけ思い出深いのは、EQ(エクセレント・クオリティ)活動と呼ばれた原価低減への取り組みを始めたことです。その一環である「大部屋活動」は、エンジンやシャシー、調達、工場などの各分野の担当者が週に1度集まって、次の1週間で取り組むべき課題を議論するというものでした。なぜやるのか。どうやるのか。深く掘り下げ、徹底的に議論しました。この活動は大きな成果を上げ、国内だけではなく海外での活動に拡大していきました。EQ活動に参加した現地のスタッフたちは、「日本のトヨタではそんなことまでやっているのか」と、ずいぶん驚いていましたね。その結果、「ならば自分たちも、もっと工夫・努力しなければ」と、モチベーションをさらに高めてくれました。その結果、それまでは国ごとに違っていたCMのイメージキャラクターを一本化したり、より効率的な部品の物流を模索したりと、さまざまなコスト削減が実現したんです。
開発から生産、そして販売までのスタッフが、カローラの成功というひとつの目標に向かって一丸となった9代目の開発は、いくつもの高いハードルがありましたが、その分、携わったメンバーの誰もが大きく成長できたと思います。
カローラは「子ども」のような存在
仕事以外でも、思い出はたくさんあります。入社後に自分で買って通勤にも使った3代目カローラ。みんなで乗って楽しんだAE86。自分の子どもの成長を一緒に見守った赤いフィールダー。どの時代のカローラにも思い入れがありますから、どれかひとつを選べと言われても決められませんね。自分の息子や娘にお気に入りの順番なんかつけられないのと同じです。
定年後に自分のアルバムを整理したんですが、カローラの写真の多さにびっくりしました。自分の子どもの写真よりもずっと多かったんですよ(苦笑)。
私のエンジニア人生は、カローラ抜きでは語れません。トヨタに入社した直後はターセルの担当でしたが、その次がカローラでした。FF化された5代目のボデー設計をつとめたんです。しばらくすると今度はカローラの製品企画室に配属。まさにカローラに育てられたエンジニア人生でした。
カローラのDNAは「変わり続けること」
カローラは今年で50年を迎えましたが、その歴史は、それぞれの時代のエンジニアが高い壁を乗り越えてきた歴史であり、50年分の汗と涙の結晶だと思います。バトンを継ぐひとりとしてかかわった自分には、非常に感慨深いものがありますね。
私が考えるカローラのDNAとは、お客様の要望や期待に応えて変わり続けていくこと。これからの開発では、自動運転やハイブリッドシステム、地域ごとのクルマの使われ方の変化など、対応すべき要素も増え、今まで以上に柔軟な対応が求められると思います。カローラの役目をしっかりと見つめ、地に足のついた開発がされることを願っています。
吉田 健(9代目カローラ開発責任者)
1974年トヨタ自動車入社。ボデー設計を担当した後、1984年に製品企画に移り、カローラを担当。1992年からタイで現地生産をするアジア戦略車「ソルーナ」の開発責任者に就任。1997年にカローラの製品企画に戻り、9代目カローラの開発責任者に就任。2003年に常務役員就任。専務取締役を経て、2008年からトヨタ車体株式会社代表取締役副社長、2010年から2015年までトヨタテクニカルディベロップメント株式会社代表取締役社長。