Nov. 08, 2016
大衆車ではないカローラ オレがAE86に乗り続けるワケ
今回は、レーシングドライバーとして、そしてハチロク愛好家として著名な土屋圭市さんに、カローラファミリーのなかで異彩を放つハチロクについて語っていただきました。
オレとハチロクとの関係が始まったのは、1984年の富士フレッシュマンレース富士フレッシュマンレース1966年に富士スピードウェイがオープンするとレースの登竜門として開催されたのが「富士ホリデーレース」だった。翌1967年には「富士チャンピオンレース」に改称し、さらに1970年に「富士フレッシュマンレース」となった。日本のモータースポーツの登竜門レースイベントとして長きに渡り親しまれ、数々のドライバーを輩出した。1997年から再び「富士チャンピオンレース」に改称されている。。それまでは日産サニー、そしてトヨタのKP61スターレットKP61スターレットトヨタ・パブリカの跡を継ぐようにして、スポーティな小型車として1973年に市場に投入されたのが初代パブリカ・スターレット(KP45:1000cc/KP47:1200cc)。その2代目がパブリカの名が消えたトヨタ1300スターレット(通称KP61スターレット)だった。富士フレッシュマンレースのプロダクションカーP1300クラスで型式認定が切れた日産サニーに代わり、後輪駆動車のスポーツ車として大人気となった。でレースをしていた。その後、ハチロクのクラスのレースが始まって、オレはどうしても出場したいと思ったけど、お金がなくてレース車両が買えない。当時は神奈川県の倉田自動車倉田自動車富士フレッシュマンレースなどモータースポーツの入門レースでは名門と言われたチーム。
倉田自動車のクルマに乗れればフレッシュマンでは一流ドライバーといわれるほどだったが、ドライバーはレースが終わってから自分が乗ったクルマは自分で洗車してクルマの裏側の見えない部分までワックス掛けをさせられるほど厳しかった。自分のクルマを隅々まで洗うことでクルマの状況を知り、クルマの造りも解るという教えだったと言われている。と坂東商会坂東正明現在のSUPER GTレースを運営するGTアソシエーション代表取締役社長。自らも20歳からレースを始め、1983年に坂東商会を立ち上げ富士フレッシュマンレースなどではレーシングチューナーとしてその名を轟かせた。土屋圭市のほか織戸学や谷口信輝といった「走り屋」出身のプロドライバーを育てるなどレース界でも異彩を放つ。その後、坂東商会から株式会社レーシングプロジェクトバンドウへと改名、現在は息子の坂東正敬が社長となりGT500とGT300クラスにダブルエントリーする名門チーム。が面倒を見てくれていて、「スターレットでチャンピオンをとったらハチロクを買ってやる」ということになった。その後タイトルを獲得することができて、1984年にハチロクレースに出ることになったんだ。
富士のフレッシュマンレースは、2リッターの日産スカイラインとの混走。ハチロクは腕さえあれば、2リッターターボのスカイラインに勝てるクルマだと思ってたんだよね。もちろんクラスは別だからそれぞれ別に表彰されるけれど、オレはどうしても全体のトップチェッカーを受けたいと思ってた。
実際やってみると、相手は2リッターターボだから直線はアッという間に離される。でも1コーナー、100R、ヘアピンまでのコーナー区間で抜けるとなんとかスカイラインのテールが見えてくるんだ。そこから最終コーナーまでは、スカイラインはアクセルをガバッ踏むとリヤが出るから踏めない。でもハチロクはアクセル全開で行けるんだよね。だから最終コーナーまでに追いついて、また直線で離されるっていうレースだった。
これは雨なら勝てるかもしれないと思っていたところ、あるとき雨が降ってウェットになったレースがあって、この時は案の定トップを快走できた。でも途中で雨が上がっちゃって、結局総合2位。そのときのことは忘れもしないよ。ニスモニスモ(NISMO)日産のワークスチームとして1984年に設立されたニッサン・モータースポーツ・インターナショナル株式会社。初心者でも参加できるモータースポーツから海外の世界選手権まで日産車のレース向け車両やパーツ設計や販売などを行っており、当時は富士フレッシュマンレースNP3000BクラスにR30型スカイラインRSターボを走らせていた。台数の関係から当時はNP1600DクラスとなるAE86型カローラ・レビン/スプリンター・トレノとの混走レースだった。からクレームがついて、オレのクルマはエンジンからミッションまでバラバラにされたんだ。このハチロクは速すぎる、絶対インチキしてるっていうことでね。でもバラしても、何もしてないわけだからもちろんお咎めなし。
総合順位は表彰とは関係ないから、ハチロクのクラスでは開幕から6連勝した。その時のシリーズは全部で8戦あったんだけど、最終戦は主催者の富士スピードウェイから「お前が出ると他の出場者がやる気なくなるから出ないでくれ」って言われて欠場したんだ(笑)
ハチロクの凄いところは当時としては非常に高いボディ剛性。アライメント変化アライメント変化トー/キャンバー/キャスター/キングピンなど車軸に対するタイヤの姿勢をアライメントと呼ぶ。一般的に「アライメント変化が起こる」という際は、クルマが走行中に起こす姿勢変化(ロールやノーズダイブなど)時に同時にタイヤの接地性を失いコントロールしにくくなる場合を指す。なんて起きないし、カウンターも一発で決まる。「うわっ、凄いなこのクルマ」っていうのが素直な印象だった。
ドリフトを極めることができたのもハチロクに乗ったから。日産のサニーでもやっていたんだけど、そのころは成功率が低かった。でも「この走り方を極めたらレースで勝てる」って思いながら走っていたんだ。それでハチロクに乗ったら、ドライバーの操作にきちんと応えてくれるクルマだから、ドリフトを完成させることができた。じつはドリフトキングっていう呼び名は、当時の「カーボーイ」という自動車雑誌の編集長が付けてくれたんだけど、それもハチロクでフレッシュマンレースを走っているときのこと。富士スピードウェイの100Rを、スカイラインを追いかけながら雨のなかでドリフトしながら抜けてくる様を見て「これはドリフトキングだ」って思って名付けてくれたんだ。
その後フレッシュマンレースでチャンピオンを獲得したら、TRDTRDトヨタ・レーシング・デベロップメントの略称で、トヨタテクノクラフト株式会社(トヨタの100%子会社)の一部門でレース車両開発・製作やレースで培ったノウハウを生かしカスタム部品やチューニングパーツなどを製造・販売する。のモータースポーツ部の部長さんと坂東さんが「全日本ツーリングカー選手権全日本ツーリングカー選手権国際自動車連盟(FIA)が定めた連続する12ヶ月間に年間5000台以上(1993年から2500台以上)生産される4座席以上の車両で争われた国内で大人気となったレース。排気量によって3クラスに分けられたがレースでは各クラス混走した。に出してやる」と言ってくれて、翌1985年はグループAに参戦した。「N2N21984~1985年のわずか2年だけ行われたAE86のワンメイクレース。ほぼノーマルのN1の改造範囲に比べ、エンジンやサスペンション、オーバーフェンダーやそれに伴うスリックタイヤなど改造範囲が多岐に渡り「特殊ツーリングカー」扱いとなった車両。当時のエントラントは、元トヨタワークスドライバーやプロドライバーなどが参戦していたプロ級ドライバーのレース。に乗りたい」って言ったら「10年早い」って却下されたんだけどね(笑)。
グループAは土屋エンジニアリング土屋エンジニアリング1971年に土屋春雄氏が興したレース車両やレース用エンジンを開発・製作する会社で現在は息子でレーシングドライバーでもある土屋武士が社長を務める。創業時からトヨタ系エンジンのチューニングを得意とし、横浜ゴムとのつながりも深く長い間に渡りADVANカラーをスポンサーにレース活動を行っている名門チーム。で出ていたんだけど、全戦エンジンが壊れてリタイヤ。最終戦のインターテックインターテック1985年から全日本ツーリングカー選手権として富士スピードウェイで開催されたレース。フジテレビと当時は全日本格式のレースを数多く運営していたビクトリー・サークル・クラブが共催し、1987年には全日本選手権(JTC)に加えて世界選手権(WTC)も同時に掛けられるほど人気となったレースで、一時は8万人を超す観客を集めるほどだった。でやっと優勝っていうレースだったね。
実はマイカーとしてもハチロクとは付き合っているよ。ハチロクが出て半年後ぐらいに購入して、現在まで6~7台は乗り継いでいるぐらい惚れ込んでいる。
最初に乗った当時はとにかく楽しくて、乗りたくて仕方がなかった。まだ峠でも走っていたころだけど、トルクが細いからちょっと外すとアンダー出るから、トルクバンドから外さなくなったらもっと上手く走らせられるっていう具合で、腕で走りが変わるから面白いんだよね。
オレはレースで色々なクルマに乗ったけど、ある部分ではいいクルマに乗るとヘタになるんだよね。ABSとか電子制御も含めてクルマがカバーしてくれるから失敗したのをごまかせる。でもハチロクはそうはいかない。ワンミスも許さないんだ。だから乗り続けているっていうのもある。ハチロクはドライバーを育ててくれるクルマだね。
もうひとつ、オレがハチロクを所有し続ける要因はアフターパーツの豊富さ。今でも毎年のようにどこかから新作パーツが出てくる。「コレ付けたらどうなるのかな?」っていうワクワク感があるからハチロクは手放せない。そして、このパーツの豊富さこそが、ハチロクを色褪せないクルマにしている要因なんだと思う。
オレは今でもレビンとトレノの2台を持っていて、トレノはナンバー付き、レビンはN2仕様にしている。今回カローラ50周年ということだけど、レビンは昔乗れなかったTRDのN2マシンを見たときの衝撃が忘れられないんだよね。オレにとってこんなハチロクがある以上、カローラは単なるファミリーカーの名前じゃない。本音でいえば、復活した86にもカローラの名前を付ければよかったのにって思うよ。
オレはこの先もハチロクを手放さない。一生乗り続けるつもりだよ。
土屋 圭市(レーシングドライバー)
1977年に富士フレッシュマンでレースデビュー。以後グループA、F3などにも参戦し、世界三大レースと呼ばれるル・マン24時間レースでは、1999年にトヨタワークスで総合2位を獲得するなど活躍。フレッシュマンレースで見せたスライドを巧みにコントロールする走行方法から「ドリフトキング」の異名をもつ。2003年にレーシングドライバーを引退し、現在はSUPER GTに参戦するARTAで、エグゼクティブアドバイザーを務める。今も愛車ラインアップにはAE86トレノ、AE86レビンが揃う。