2016年11月07日

絆と奇跡のカローラ 津波や火事にも負けずに蘇ったクルマ

 

絆と奇跡のカローラ 津波や火事にも負けずに蘇ったクルマ 絆と奇跡のカローラ 津波や火事にも負けずに蘇ったクルマ
2016年11月7日

絆と奇跡のカローラ 津波や火事にも負けずに蘇ったクルマ

 多くの尊い命が失われた2011年の東日本大震災。日本観測史上最大の地震がもたらした津波は、多数の家屋ものみこんだ。自動車の被害も甚大だった。被災地自治体に処分依頼があった被災車両だけでも7万台、一説では20万台以上もの自動車が使用不能になったと言われている。

 そんな未曾有の被害の中、津波に流されながらも復活を果たしたカローラが存在する。宮城県南三陸町にお住まいの渡部正行さんが所有する1971年式カローラ・クーペ1400SRだ。修復完了までに要した歳月はおよそ5年。その道のりは平たんなものではなかった。

1971年式カローラ・クーペ1400SR

廃車しかないと思っていた

 渡部さんは、震災直後のカローラを次のように振り返る。
「流されたカローラを見つけたのは、津波の3日後でした。全壊した自宅から30mくらい離れた場所で、木に引っ掛かって止まっていたんです。廃車しかないだろうとあきらめてしまう状態でした」

 渡部さんの自宅があったのは、海からほど近い海抜5~6mの場所。周囲の家はほとんどが押し流され、津波にのまれた多くの自動車も、元の形が分からないような無残な姿になっていた。だが、渡部さんのカローラだけは違った。ボディのあちこちが凹み、ドアも開かないような状態ではあったが、驚くほど原型を保つ形で発見されたのだ。

震災直後のカローラ

 その理由を、渡部さんはこんな風に推測している。
「保管していた状態のおかげだったと思います。私のガレージは扉がなかったので、海風の吹き込みがひどかったんです。そのため、塩害からカローラを守ろうと、ボディに毛布を乗せて、その上から二重にカバーをして車体の下で縛って保管していたんです。カバーが“浮き袋”の役割を果たしてくれたらしく、カローラが水底に沈んでしまうのを防いだようなんです」

 ボディの原型が留められていたとはいえ、なにしろ津波に流されたあげく、木の上に挟まって発見されたクルマである。車内やエンジンルームを見ると、海水が浸入した痕跡もある。もちろんエンジンもかからない。常識で考えれば、廃車もやむなしである。

クルマ仲間の後押しで修理を決断

 修復のきっかけを作ったのは、東京に住むクルマ仲間のひとりだった。
「実は私、自動車愛好家で作るカークラブの会長をやっていて、20年以上前から東北各地でクラシックカーのイベントなどを開催していたこともあって、そこで知り合った仲間たちが大勢いたんです。震災直後からたくさんの仲間が心配してくれて、宮城に駆けつけてくれた人たちもいました。そのうちのひとりが、ここまでボディが残っているなら絶対に直すべきだと言ってくれたんです」

 東京のクルマ仲間は、クラシックカーを扱う自動車雑誌『オールド・タイマー』の編集部に助けを求めた。話をうけた編集部は、編集部員みずからの手で修理作業を行うことを決断する。

 震災から2カ月後、カローラはようやく木から降ろされ、東京に運ばれた。カローラ再生プロジェクト、いよいよスタートである。

震災から2カ月後、カローラはようやく木から降ろされ、東京に運ばれた

全国から集まった支援の輪

 手助けしてくれたのは、クルマ仲間や自動車雑誌だけではなかった。再生プロジェクトが雑誌に掲載されると、日本全国の自動車愛好家たちが、自分の愛車のために保管していた大切な部品を提供したいと願い出たのだ。全国からの支援の声のもと、修復は手作業でコツコツと進められた。

最大のピンチと新たな支援

 いよいよゴールが見えてきた2014年11月、カローラはふたたび災難に見舞われる。修理作業の場となっていたガレージが、不審火による火事を起こしたのだ。カローラは、焼失こそ免れたものの、塗装や樹脂部品などが高温によるダメージを受けた。出番を待っていた修理部品の多くも、火災の影響で使えなくなったり、行方不明になったりした。修復作業はやむなく停止状態に。最大のピンチだった。

 だが、ここでまた新たな支援者が現れた。茨城県の自動車修理工場が、修理を引きつぎたいと申し出たのだ。
「この工場との結びつきを作ってくれたのも、クルマ仲間のひとりだったんです。彼から話を聞いた修理工場の社長さんが、ひと肌脱ごうじゃないかと引き受けてくれたんです」

ついにレストア完了:東北に戻ったカローラ

 そして2016年3月。修復作業はついに完了。修復にかかった費用や部品代は、支援してくれた人たちのご厚意ですべてが無償だった。ぴかぴかになったカローラは、茨城県の工場から宮城県まで元気よく自走で帰郷。渡部さんが暮らす仮設住宅で引き渡し式が行われた。その場には、自動車愛好家およそ30人が祝福にかけつけた。新聞やTV局なども取材におとずれ、その模様はNHKのニュースでも全国放送された。

東北に戻ったカローラ

家族との思い出が詰まったクルマ

「まさかこんなふうに乗れる日が来るなんて。夢にも思いませんでした」

 赤いカローラには、渡部さん家族の思い出がたくさん詰まっている。このクルマを新車で購入したのは、21歳のとき。長男が生まれた直後のことだった。当時は大卒公務員の初任給が約4万円だった時代。オプション込みで75万円だったカローラは、若い渡部さんにとって大きな買い物だった。

「実は最初はセリカが欲しいなと思っていたんです。けれどディーラーに行ったら、『発売したばかりの1400SRは、気仙沼では誰も乗ってませんから、いま買えば第一号車ですよ』って言われてね。そりゃいいねって(笑)。それに、赤いボディカラーも良かったんですよ。当時、こういう赤いカラーのクルマなんて本当に珍しかったですからね」

赤いカローラには、渡部さん家族の思い出がたくさん詰まっている

 渡部さんは、家族とともにさまざまな場所にカローラで出かけた思い出を、なつかしそうに目を細めて語る。

「菅生の遊園地にも行ったなあ。そうそう、北海道にも2回行きましたね。1回で北海道を半周するって旅行を2回やって、合わせて1周って旅行をしたんですよ。まだ子どもがおしめをしていたころでしたね。車内のフックにヒモを張って、そこに洗ったおしめをひっかけて乾かしながら走ったっけ(笑)。東京にも来たなあ。あの時はキーを車内に残したままドアをロックしちゃったんですよ。しかたなくリアサイドのガラスを割って、そこから手を入れてドアロックを解除したんだ(苦笑)。宮城までの長い帰り道、割れたガラスをテープでふさいで帰ったんですよ(笑)」

 震災の時点でも、所有期間はすでに40年。購入したときは、こんなに長く乗るつもりは全くなかったという。けれど、家族との楽しい思い出が増えるうち、知らず知らずに長く乗ることになっていた。

「それまでは、なんとなく手放さなかったという感じだけれど、今はまったく違います。このカローラには、みんなの想いが込められているんです。みんなの気持ちがあったからこそ直ったカローラですから、もう絶対に手放しません」

渡部さんは、家族とともにさまざまな場所にカローラで出かけた思い出を、なつかしそうに目を細めて語る

「あの日を忘れない」カローラがつないだ絆

 協力してくれた人たちには、感謝してもしきれないという渡部さん。少しでも恩返しになればと、渡部さんのカローラは、ただいま日本各地を行脚中だ。東北はもちろん、遠いところでは九州と、全国のカーイベントを回って多くの人たちに見てもらう機会を作っている。

 修復を終えて新たに取得したナンバープレートには「311」の数字が刻まれている。「あの日を忘れない」という想いが込められたナンバーだ。

 多くの人々の強い絆によって、誰もが不可能と思うような復活を遂げてみせたカローラ・クーペ1400SR。この奇跡は、これからも多くの人たちに勇気を与えてくれるに違いない。

修復を終えて新たに取得したナンバープレートには「311」の数字が刻まれている