あなたはハイラックスを知り尽くしているという自信がありますか?雪道も走行できること、頑丈で長年走り続けられることを、すべてご存じでしたか?それだけではありません。トヨタの象徴とも言えるこのクルマの熱狂的なファンだとしても、MOONEYESのショー会場に足を踏み入れたことがないなら、本当の意味でハイラックスを知っているとは言えないでしょう。

MOONEYESのショーにハイラックスのハイエンドカスタムカーが登場

「MOONEYES HOT ROD CUSTOM SHOW」は、多くの人の言葉を借りれば、世界最高のクルマとバイクのショーです。世界中からカスタムカルチャーの粋を集め、24年にわたって毎年12月に開催されてきたこのショーは、ここ数年は東京湾に面した歴史ある都市、横浜で開催されています。そして2015年は、会場となっているパシフィコ横浜の広いホールに、厳選された日本製トラックの数々が登場しました。そこで人々の目を引いたのが、カスタム仕様のハイラックスです。

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OMIAUTOの長谷川宰臣さんはこう語っています。「とにかくハイラックスが好きです。理屈抜きに、手を加えていて美しいと感じます。力強さがありながら、美しいクルマなんです。」

茨城県小美玉市にあるOMIAUTOは、2015年のショーで大きな注目を集めたカスタムビルダーの一つです。鮮やかなアップルグリーンの1992年式日本仕様ハイラックスには、メタルフレークの青い炎が描かれています。リヤには細かく調整されたクロームメッキのMR2 2Lエンジン2基を、フロントのエンジンコンパートメントには同じくクロームメッキの燃料タンクを搭載しているほか、モーターの周囲には入り組んだエアサスペンションシステムが見事に配置されています。

「完成まで10年以上かかりました。自分たちが成し遂げた仕事を誇りに思います」と長谷川さんは言います。実際にクルマを見れば、長谷川さんの目が喜びにあふれているのも納得できます。

2015年のショーに登場したトラックのほとんどが、ボディを直接荷台に置き、発進時にボディを持ち上げるエアサスペンションを備えたカスタムカーでした。これは言うまでもなく南カリフォルニアのローライダーにインスパイアされています。

日本のカスタムカーの中でも特にマニアックと言えるそうしたトラックが、いつどのようにして文化の壁を超えて日本に登場したのか、今となっては誰にも分かりません。1980年代にヒップホップや「ギャングスタ」の美学がMTVを通じて広まったのと同じ現象かもしれませんが、そこは皆さんの解釈にお任せします。ただ言えるのは、1990年代半ばにハイラックスを改造してアートを加えるのがカッコイイと考えられていたということです。

MOONEYESは、太平洋を越えて二つの文化が融合し、さまざまな姿を見せる万華鏡のようなショーです。そこには、古き良きアメリカの文化と日本独特の美学が混ざり合っています。

出展された車両に見られる細部へのこだわりは、偏執的とさえ言ってもいいほどです。細部にまでこだわり抜き、日本的なユーモアを交え、憧れのアメリカのカスタムビルダーのテイストをふんだんに取り入れ、世界に一つしかないメタルフレーク入りキャンディーアップルカラーのクロームメッキのカスタムカーに仕上がっています。クルマやバイクに乗る人なら、MOONEYESは必見のショーです。

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MOONブランドの創設者であるディーン・ムーンは、カリフォルニアで思いどおりにクルマを仕上げるカスタムカルチャーを築いた戦後生まれ世代の一人です。彼らは、優れたスキルを持ち、スリルを味わうのが大好きで、金銭的な不自由なく、ポケットには除隊証明書が入っているといった若者たちでした。ホットロッド(改造車)とカスタムカルチャーは、彼らにとっては鬱積したエネルギーのクリエイティブなはけ口だったのです。

1940年代後半から1950年代にかけて、アメリカはV8エンジンの全盛期でした。やがてMOONブランドはカスタムシーンの合い言葉になります。ムーンが製造・販売したさまざまな製品は、ドラッグレースやカスタムカーの世界でアイコン的存在となったのです。それらはもはや、ただの圧力計や燃料タンクやギヤレバーという扱いではありませんでした。MOONブランドのフットペダルやホイールディスクは、カスタムカーの神髄を成すものとなりました。商業主義が一世を風靡した1950年代のアメリカにおいてさえ、ムーンは時代を先取りしたブランディングの天才でした。ムーンはアーティストやグラフィックデザイナーと協力し、南カリフォルニアの大通りの原風景を作り上げたのです。「MOONEYES」のロゴとエド・”ビッグダディ”・ロスの「ラット・フィンク」はたちまちカスタムカルチャーの象徴となりました。

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日本人はある文化を取り入れてリメイクすることに長けています。そうしてリメイクされたカルチャーが、オリジナルを上回る強烈さと緻密さを持つことも珍しくありません。ホットロッドとカスタムカルチャーに出会った日本人が狂喜乱舞したのも当然のことでしょう。当時、進駐軍のGIは、外の世界を見せてくれる窓でした。そして、GIのほとんどが横浜港から出入りしていました。横浜の若者たちは、軍の放出品であるTシャツやデニムといった高品質の衣料品やロックのレコードを買いあさって売りさばいたのと同じく、進駐軍が持ち込んだクルマにも目を付けて改造したのです。

60年代から70年代の驚異的な経済成長に伴い、日本のカスタムカルチャーは急速に成長して全国に広がりました。

ムーンは1987年にこの世を去り、その妻がMOON Equipmentを引き継ぎましたが、ほどなく彼女も亡くなってしまいます。その後1992年に、長年MOON Equipmentの日本代理店を務めていた菅沼繁博とチコ・コダマが同社を買い取り、新しいMOONEYESが生まれました。二人はサンタフェスプリングスにあったオリジナルのショップをそのまま残し、横浜にMOON Cafeを併設した新しいショップをオープンしました。このショップはやがて、世界的カルチャーの発信地として注目を集めるようになりました。

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看板に日本語がなければ、そこをパサデナと見間違えるかもしれません。東京から南に2時間ほどの産業都市である静岡は、中心に広い大通りが走り、道路が碁盤目に配置されています。周辺には小さな商店街があり、国道沿いに並ぶ町工場のそこかしこに自動車工場が見られます。

静岡の国道沿いでTRUCK CENTERを経営する堀口久夫さんは、「トラックのカスタマイズを25年手掛けてきました」と語ります。堀口さんはカスタムトラック界の重鎮の一人です。彼がデザインと改造を手掛けたアダムス・ファミリー風のハイラックス・クルーキャブは、MOONEYESに集まった人々を驚嘆させました。

堀口さんのハイラックスは、OMIAUTOの「グリーンモンスター」とは対照的な落ち着いた色合いで、ミッドセンチュリーの絵画「アメリカン・ゴシック」を思わせる魅力をたたえています。

才気あふれるMOONEYESのスタッフのはからいで、この美しいワゴンはトラック展示場の反対側に配置されました。堀口さんはまた、早い時期から日本的な気品ある改造を提唱してきた一人でもあり、特にエアサスペンションについては革新的な手法を編み出しています。MOONEYESの正規代理店であるTRUCK CENTERの工房は、あちこちにラット・フィンクが飾られ、ムーンの世界観へのオマージュにあふれています。「カリフォルニアが好きで、7、8回は行きました。カリフォルニアのクルマは特別ですから。」

堀口さん、あなたのクルマこそ、まさに特別ですよ!

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