クルマと愛とサウンドを語らせたら止まらない2人が、レースの楽しさを、実際のレースやレースをめぐる人たちなどを訪ねながら紡ぐオリジナル連載(#10)です。

富士スピードウェイの30度バンク

レースのスタートについてです。国内最大の4輪の大会、日本グランプリが中止になった後、1970年、富士スピードウェイで、「富士グランチャンピオンレース」というのが始まります。僕が大好きだったレースで、「グラチャン」と呼ばれてました。

  • (富士スピードウェイ提供「1972年富士グランチャンピオンシリーズ」)
    (富士スピードウェイ提供「1972年富士グランチャンピオンシリーズ」)
  • (富士スピードウェイ提供「1975年富士グランチャンピオンシリーズ」)
    (富士スピードウェイ提供「1975年富士グランチャンピオンシリーズ」)

富士スピードウェイは最初、オーバルコースを考えていたので、30度のバンクが設けられていたんです。オーバルコースではコーナーで減速しなくていいようにバンクをつける。

でも、当時のグラチャンのコースは普通のロードコースなのに、そのうえ、バンクがあった。普通のコースとオーバルでは足まわりなど車のセッティングが違うんですよ。それなのに、コースを走って、さらにバンクがある。当然、スピードが出てこわい。

1974年の富士グラン300キロの時、ローリングスタートで隊列が乱れて、30度バンクに向かう時、車両同士が接触して、2名が亡くなってしまう事故がありました。それからいったんローリングスタートと30度バンクを廃止して、スタンディングスタートに変わったんです。

(富士スピードウェイに残る30度バンク)
(富士スピードウェイに残る30度バンク)

(問 スタンディングスタートの方が安全なのですか?)

とも言えなくて…。スタンディングでも、1台が止まって動かないと、ぶつかる可能性もある。どっちとも言えないですね。1974年の時は見てましたけれど、先頭のポールポジションの車の速度が遅かったように見えました。それで隊列が乱れて…。隊列が乱れるのは危ないんですよ。そのうえ、スタートの時は駆け引きもありますしね。

(問 それにしても30度のバンクと言ったらすごいですね。スキーの斜面だって、30度といえば急斜面だし、まったくの坂道です)

ええ、だから、今は使っていなくて、メモリアルパークになっています。バンクは残ってますよ、コースの外に。

バンクを見て、思ったことがあるんです。「こんなところをアクセル全開で走ったんだなあ」って。いったい、どういう気持ちだったんでしょうね。話は変わりますけれど、バンクの出口は「須走落とし」というんです。他にも富士スピードウェイのコースには「横山コーナー」といった、抜きどころがあったりして。須走落としとか横山コーナーって名前、いちいち和風で笑っちゃうんですけれど。

(富士スピードウェイに残る30度バンク)
(富士スピードウェイに残る30度バンク)

メカニックと競技長に注目!

レースを欠かさず見に行くようになったのは中学校1年からです。高校になると、もうあまり行かなくなったかな。中学校の間はもうできるだけ行ってました。予選が土曜日だったから、土曜に出かけて行って、日曜日の決勝まで見て帰る。中学生ですから、宿に泊まるお金は持ってない。おじさんと行った時は宿に泊まりましたけれど、友だちと行った時はテントを持っていって、富士霊園の近くの空き地でキャンプというか、野営してました。それくらい、レースが好きだったんですよ。週末になると、富士へ向かうのが習慣になってましたね。

(現在の富士スピードウェイ西ゲート)
(現在の富士スピードウェイ西ゲート)

そして、レースを見るのですが、スタートや車がコーナーを走ってるところだけじゃなく、ピット作業を双眼鏡で眺めたりもしてました。

ピットで行うタイヤの付け替えでも、当時は脱着しやすいセンターロックではなく、一個一個ナットを取り付けていたから、それこそ時間と手間がかかる。いかに早くやるかというところに職人技がありました。僕はピットクルーの名前も覚えてましたよ。

双眼鏡で見ながら、「この素早さは小倉明彦チーフメカだな」とか「さすが、佐藤政宏メカニック」とぶつぶつ呟きながら作業を見る。どのチームにもカリスマメカニックがいたんです。いまもいらっしゃると思いますけれど、彼らの活躍を見るのもレースの愉しみなんです。

高原レーシングの小倉チーフメカ。あとサカイレーシングの佐藤政宏さん。メカニックではないけれど、カーデザイナーの由良拓也さんとか。サーキットにはそういったスタッフのカリスマがいて、その人たちの名前と顔を覚えて、出会ったりすると、そこでまたまた興奮なんですよ。

レースオタクになってくると、どれだけスタッフの名前を知っていて、エラそうにしゃべることができるのかがポイントになってくる。

「ああ、ブリヂストンの浜島さんね」とか「今日の安友競技長のフラッグの振り方はよかったな」なんて…。エラそうですよね、ただのファンなんですけれど。

競技長もまた見ていると面白いんです。ローリングスタートのときの競技長は相当なプレッシャーじゃないかな。事故が起こったら、自分のせいにされちゃうんだから。

ローリングスタートで、隊列が乱れてたらスタートができないから、もう一周走らせたりするわけで、その判断をするのが競技長。ローリングスタートには先導するペースカーがいて、僕が見ていた当時は篠原孝道さんというレーサーが乗ってました。一周、走って、篠原さんがピットロードに入って、競技長が日章旗を振ったら、そこでスタートなんです。ただ、篠原さんがピットロードに入ったけれど、スタートしないこともある。競技長は隊列を見ているわけです。これならスタートさせていいとか、もう一周だな、とか。自分のフラッグの振り方ひとつで事故になるかもしれないのだから、競技長は大変です。

あと、昔のフィルムを見ていたら、競技長がコース上でフラッグを振っていたりして…。今は高いところ(コントロールタワー)に上って、フラッグを振ってますけれど、60年代、70年代は地面の上でやっていたから、フィルムを見ていて、「競技長が轢かれるんじゃないか」と、ひやひやしました。

やさしかった「ピットロード」の篠原さん

レースばかり見ていた中学生の頃、今はなくなってますけれど、横浜ドリームランドがあって、僕はその隣のドリームハイツという巨大な団地に住んでいたんです。日吉から引っ越して、戸塚に来たわけです。当時、中学生ながら、「毒ガス」という名前の自転車暴走族をやっていました。それでもレースが好きだから、団地から1時間半かけて大和市にあるレーシングショップ「ピットロード」に遊びに行ってたんです。

(朝日新聞社提供「横浜ドリームランド」)
(朝日新聞社提供「横浜ドリームランド」)

「ピットロード」はペースカーに乗っていた篠原孝道さんがやってらしたお店でした。店内には篠原さんの優勝カップがあったり、サインも飾ってあった……。僕は「サインください」とかやたらと話しかけて、ただの迷惑なガキでしたね。

「篠原さん、僕もレーサーになりたいんです。弟子にしてください」って直訴したことがあります。そうしたら「君、ちょっと考え直せ」と。

――横山君、君みたいなガラの悪い格好で、チョッパーの自転車に乗ってるようじゃダメだ。レーサーは真面目な仕事だ。真面目になれ。

それで、弟子にはなれなかったんですけれど……。その後、レースを見に、富士スピードウェイに行って、入場口でお金を払おうとしていたら、ちょうど篠原さんが車で通りかかった。

「篠原さん」

呼びかけたら、「ああ、乗っていきなよ」って、ドアを開けてくれた。そのままパドックまで連れていってもらって、他のレーサーの方たちを紹介していただいて…。

だって、タダの悪ガキですよ。中学生の不良を一人前に、もてなしてくれてねえ。レーサーってやさしい人たちなんです。そんなやさしい人たちがいたから、僕はますます車とレースが好きになっていったわけです。

僕も晴れてサンデー・レーサーになった以上、たとえ迷惑なガキがやってきても、ちゃんとお客さまとして、対応していこうと反省しております。レーサーが率先してやさしく対応することで、車好きが世の中に増えていくんじゃないかな。

著者

横山 剣(よこやま けん)
1960年生まれ。横浜出身。81年にクールスR.C.のヴォーカリストとしてデビュー。その後、ダックテイルズ、ZAZOUなど、さまざまなバンド遍歴を経て、97年にクレイジーケンバンドを発足させる。和田アキ子、TOKIO、グループ魂など、他のアーティストへの楽曲提供も多い。2018年にはデビュー20周年を迎え、3年ぶりとなるオリジナルアルバム『GOING TO A GO-GO』をリリースした。
クレイジーケンバンド公式サイト
http://www.crazykenband.com/
野地 秩嘉(のじ つねよし)
1957年東京生まれ。早稲田大学商学部卒。出版社勤務、美術プロデューサーなどを経てノンフィクション作家。「キャンティ物語」「サービスの達人たち」「TOKYOオリンピック物語」「高倉健ラストインタヴューズ」「トヨタ物語」「トヨタ 現場の『オヤジ』たち」など著書多数
横山 剣・野地 秩嘉

以上

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