クルマと愛とサウンドを語らせたら止まらない2人が、レースの楽しさを、実際のレースやレースをめぐる人たちなどを訪ねながら紡ぐオリジナル連載です。
レースが始まって30分後、スポンサールームを出て、グランドスタンド方面へ行くことにした。スタンドの観客はいずれも予約チケットを買った人たちだ。人数制限のため、当日券は売っていない。そして、グランドスタンドでは着席場所も指定されていた。全員、検温して、消毒してから入場し、マスクを着用しての応援である。むろん大声は出せない。ただし、拍手はする。手が痛くなるくらい、みんな拍手していた。
「Are you ready?」富士スピードウェイに響き渡るDJの声は高揚して上ずっていた。サーキットのグリッドには出走する各車が並び、スタートコールを待つ。
今年、CKBは新アルバム「NOW」を出したこともあって年末からは全国ツアーの予定でした。しかし、それは延期になり、また、夏にはハワイ公演をやる予定もありました。
「ようこそ!やっと会えました!この、のっぴきならない状況のなか、日本武道館にお越しいただきありがとうございます。本来でしたらCKBの場合、ここでは8,000人くらいのキャパで行っていたのですけれど、今日は半分のキャパしかありません。悔しいですが、それでも、こんな体験はめったにあることではございません。短い時間ではありますが、これまでに味わったことのない、未知の世界、スぺイシーな世界へみなさまと一緒に旅をしていきたいと思います!」
事務所の部屋でひとりでプリプロ作業をやっている時、曲によってどうしてもギターがほしいと思うことがあるんです。その場合は、のっさん、もしくは、ガーちゃんに来てもらって、デモテープ作ります。やっぱりギターの音がないとダメな曲があるんですね。
10月30日、CKBは新型コロナ蔓延以後、久しぶりに観客を入れたライブを行う。場所はLED照明などの設置で大改装された日本武道館。なお、同公演はインターネット上で同時生配信される。
10月18日に筑波サーキットで行われる旧車のレースを控えている横山正佳(レーサー名)選手は車作りだけでなく、体の手入れも欠かさない。体調を整え、時間を作ってはサーキットへ行って車を走らせる。
音楽家兼カーレーサーの横山正佳(レーサー名。剣は音楽家)は2020年の春先から新型コロナ禍で自宅にいる日々が増えた。だが、7月5日には、おじさんレーサーとして筑波サーキットに出走。続いて10月18日には同サーキットで行われる2020筑波ミーティングエンデュランス、いわゆる旧車のレースの2部門に出る。
筑波サーキットではレースや車の話と同じくらい、音楽の話をした。メロディに続いて、横山剣は歌詞について、どう思っているのか。歌詞はどうやって作っているのか。
筑波サーキットのレース当日は曇りである。前日の予報では「一日中、弱い雨」とのことだったが、雲は厚かったものの、雨滴は落ちてこなかった。気温も7月にしてはそれほど高くなく、選手にとっても観客にとってもレース日和だった。
新型コロナウイルスの蔓延でミュージシャンの生活はがらりと変わった。三密を防ぐため、音楽のライブ出演を自粛せざるを得ないからだ。そして、サーキットやラリーに出るレーサーだって、ミュージシャンと同じようにコースで車を運転することができなくなった。ミュージシャンであり、アマチュアレーサーでもある横山剣はリアルな現場に行くことができなくなったのである。
ラリーのSSではカーブとその立ち上がりが見える場所に陣取ればいい。もうひとつ、迫力を感じるのは車がジャンプする箇所だ。スキーのダウンヒル競技を見ているとわかるけれど、高速で坂を下っていると、ちょっとした起伏であっても、スキーヤーは空に飛んでしまう。
サーキットのレースとラリーの最大の違いは車に乗る人の数だ。レースはもちろんひとりで運転する。ラリーはドライバーとコ・ドライバー(コドラとも略す)のふたりでやる。
2002年まで、WRC(世界ラリー選手権)の一戦として「サファリ・ラリー」があった。ラリー・モンテカルロ、RAC(ウェールズ)ラリーと共に「世界三大ラリー」と称されていたもので、ケニアの首都ナイロビをスタートしてサバンナをかっ飛んでいくワイルドなラリーだった。
「カーレース入門」連載から1年。これまではサーキットのレースの話を載せてきたけれど、これからはレース場を飛び出して、ラリーの話になる。
夜が明けてからもレースは続く。ゴールまでの間、わたしは部屋で仮眠を取ったり、ロビーでモニターを見たりして過ごし、その後は、かねてから決めていた第一コーナー前の観客席にいた。おおよそ4時間くらいはただただそこに座ってホームストレートから第一コーナーに入ってくる車のダンスを飽きずに眺めていた。
グランドスタンドでスタートを見た後、コース脇のホテルコングレスに戻り、ロビーに置いてあった大型画面のモニターで観戦した。ホテル内にはコースから聞こえてくるエンジン音が響き渡る。ロビーでレースの実況中継を眺めていたのはわたしだけでなく、関係者やモータージャーナリストが10数人、一緒だった。
ツアーの締めくくりは森のなかでのバーベキューパーティだった。メニューはソーセージが2種類、豚肉2種類、ポテトサラダとグリーンサラダ。ビールとワイン。ドマガラさんは全員にビールやワインを注いでまわる。
決勝前日の夜、ニュルのコース沿道で楽しむ観客たちを見に行った後、サーキット脇のコングレスホテルに戻った。午後7時を過ぎていたけれど、6月のドイツはまだまだ明るかった。
コースにはいくつかの難所がある。グランドスタンドからもっとも遠い位置にあるブライトシャイトと呼ばれる下り坂と上り坂が連続する箇所は地元の人々は「車殺し」と呼んでいる。サーキットでレースやテスト走行が行われると、地元の人たちが見物にやってくるのだが、観客が「ここがいちばん面白い」と口をそろえる場所がブライトシャイトの坂道だ。車は猛烈なスピードで下り坂を走り、次の瞬間、坂を駆け上がる。上り詰めたら、次は右カーブが待っている。シフトダウンとブレーキの音が途切れることがないのがブライトシャイトだ。
ニュルブルクリンクで開かれた24時間耐久レースの会場は祝祭空間だった。あそこで見たことは3か月過ぎた今でも忘れることができない。ニュルでの体験は「どこまでもついてくる饗宴」で、頭のなかに残像として明滅している。あのレースは特別だった。
アーウィンデールのコースは一周、0.5マイル。800メートルですから、直線の距離は250メートルといったところでしょう。そこで300キロ近い速度が出るなんて、ありうるのかな、ほんとに。
「NASCARはアメリカの文化」。現地に来れば納得です。僕もタコス食べたし、生バンドの演奏も聴きました。Tシャツやキャップは買おうと思ったけれど、チームやスポンサーが最高にメリメリなグッズをプレゼントしてくれました。これもやっぱりアメリカ文化。その気前の良さは米軍基地が本牧にあった当時の色んなフェスティバルを思い出しました。
名前の響きがいいでしょう、「カーズ・アンド・コーヒー」って。朝9時に行きました。レドンドビーチから1時間半くらいかかったかな。車好きのオーナーが休日の朝に集まるイベントです。自分が整備したり、レストアしてきれいになった愛車を持ってきて、並べておく。
小学校の頃、学校に行く前にテレビでインディーやNASCARの番組をやってました。朝ごはんを食べながら見ていたんですけど…。すごい迫力でしたよ、まったく。
ヘアピンカーブでは差が出ます。ヘアピンは曲がる前に、それなりに速度を落とさないといけない。ブレーキングのタイミングが重要です。そこを見ます。
生まれて初めてサーキットに出かけていった人間はレースカーのエンジン音にびっくりするかもしれない。町を走る車のエンジン音とは違い、大音量だからである。さらに、観衆が多いことにも驚くだろう。加えてサーキットの周りに出店しているパーツ、Tシャツなどを扱う店舗がいくつもあることに気づく。しかも売っているTシャツから車のパーツまで、カラフルな商品ばかり……。
サーキットって都会から離れているし、公共交通機関の駅もないところがほとんどでしょう。モナコとかマカオならともかくとして…。すると、どうしても自分の車で行くしかない。そうなると、何か聴いていきます。
レースのスタートについてです。国内最大の4輪の大会、日本グランプリが中止になった後、1970年、富士スピードウェイで、「富士グランチャンピオンレース」というのが始まります。僕が大好きだったレースで、「グラチャン」と呼ばれてました。
生まれて初めて見たレースは映画でした。『グラン・プリ』。ジェームズ・ガーナーという『大脱走』にも出てくるアメリカ人俳優が主演のカーレースの映画なんです。1966年のことで僕は6歳でした。日本橋にあったシネラマってワイドスクリーンの映画館で、連れていってくれたのは田寺さんって僕の父親パート1。パート2の名前は横山さんで、この人はトヨタ東京パブリカ店の芝営業所に勤めていて、パート1と別れたうちの母と再婚したわけです。
さて、ここで競馬の誕生と発展を自動車レースの世界にコンバートしてみる。
自動車レースの始まりとして伝えられているのはカール・ベンツが1号車を出したのと同じ年、1887年の4月だ。場所はフランス、パリ市内のヌイイ橋からブローニュの森までの約2キロメートル。優勝者の車は蒸気自動車だった。優勝タイムは伝わっていない。しかし、2キロなら自分の足で走るか自転車の方が速い。しかも、集まった車のうち、スタートできたのはこの蒸気自動車1台だけだった。つまり、レースと呼ぶにはほど遠い内容なのだが、なぜかこれがレースの始まりと伝えられている。
自動車レースはいつから始まったのか。ただ調べるだけなら、ウィキペディアを読んだ方が早い。ちょっと説明の仕方を変えてみることにする。その方がレースをすることの目的がよくわかるからだ。
「ビリになっちゃうかもしれない」という言葉を残して、横山選手は決勝へ。第1ドライバーはチーフメカニックの染野広治。横山はヘルメットなしの姿でル・マン式スタートのためにスタートグリッドから離れた場所に立つ。合わせて8人の第2ドライバーが並んだ。一方、車はグリッドではなく、コースの脇に一直線に並ぶ。
横山剣が選手として参加したクラシックカーの耐久レース「サイドウェイ・トロフィー」が開催されたのは袖ケ浦フォレストレースウェイである。
同サーキットの開場は2009年。FIA(国際自動車連盟)の規格に従ったコースで、JAF(日本自動車連盟)も公認している。コースの長さは1周2,436mでコーナーの数は14。メインスタンド前の直線距離は400mである。大規模なコースではないし、グランドスタンド前の直線も短いためスピードは出ない。しかし、観客にとってはこじんまりとしていて、気楽だし、走っている選手の姿が間近に見られる。心地よくレース観戦できるサーキットだ。
――富士スピードウェイでお目にかかったレジェンド・ドライバーの方たちは年齢で若手組、年長組で分かれていたのですが、若手組のなかに鮒子田さん(72歳)が入ってらして……。年長組になると、80歳を超えた方もいらっしゃいました。そして、その方がまた速いんですよ。モータースポーツって、年齢を超えて楽しむことができる。それに、男女、一緒に同じレースに出られるでしょう。年齢も性別も超えている。これこそ多様性、ダイバーシティ・スポーツ。
平成の時代になってから、第一生命が「大人になったら何になりたいか」を毎年、小学生に尋ね、結果を発表している。
ここのところの上位はサッカー選手、学者、警察官といったものだ。けれども、これが昭和生まれの大人に「あの頃何になりたかったか」を尋ねると、順位はがらっと入れ代わる。
この取材を始めるまで、わたしが間近で「カーレース」を見たのはフランスのルマン24時間耐久レースと、もうひとつは「ナポリ・グランプリ」だ。そして、どちらがより印象に残っているかと言えば、それは前者ではなく、ナポリの海岸通りを車が走る「グランプリレース」だったのである。
クレイジーケンバンドのリーダーでボーカルの横山剣さん。生粋のCar Guyだ。二番目のお父さんはトヨタの販売店、芝営業所に勤めるCar Guy。まだお父さんになる前、彼はお母さんにパブリカを売りつけた。横山さんはレーサー志望だったお母さんの運転で自宅のあった日吉からドライブ。横浜バイパスを通って、横浜ドリームランド(1964~2002)という遊園地に遊びに行ったという。親子二代、自動車とは切っても切れない関係がある。