2024年10月25日
人のコミュニケーションの状態を可視化する「バッジシステム」の開発
トヨタ自動車株式会社 未来創生センター(以下、トヨタ)と株式会社豊田中央研究所(以下、豊田中研)では、会話によるコミュニケーションをセンシングデータにより可視化し、個人や組織の活力向上につながる取り組みをおこなっています。本プロジェクトでは、理論研究だけでなく「価値の追究」にも重きを置き、社内研修や職場といった現場での実証実験にこだわりましたので、その内容を紹介いたします。
-まず、このプロジェクトを始めた経緯を教えていただけますか?
- 光田
はい。プロジェクト立ち上げ当初、私たちは、日々の生活や仕事の中での困りごとを数理・データサイエンスの力で解決したいという想いも持っていました。そこで、身近な困りごとの問題解決を通じて将来に向けた新しい価値の創造を目指すプロジェクトを立ち上げました。
私たちが着目したテーマは、直接対話によるコミュニケーションです。現代社会では価値観や選択肢が多様化しており、直接対話を通じて視点を広げていく重要性がますます高まっています。しかし、効果的な発話や共感などができずに困っている人も多くいます。
私たちは、コミュニケーションの状態をデータで客観的、かつ、定量的に理解できるようにし、多面的な気づきを得ることで、個人や組織の活力向上や成長につなげられるのではないかと考えました。
-目に見えないコミュニケーションを可視化できたらすごいですね。具体的にはどのような技術を使用したのですか?
-
図1. トヨタが開発した「バッジ」
MIT Media LabのOpen Badgesをベースに、100名規模でデータを収集できるように開発しました
- 光田
- すでに実施している他機関の研究として、株式会社日立製作所研究開発グループの「ビジネス顕微鏡®*1」、MIT Media Labのオープンソースライセンスで提供されている「Open Badges*2*3」などがあります。これらは、首からぶら下げるタイプのウェアラブルセンサーで、会話量、発話タイミングに加え、話し相手との物理的な距離、発話者の身体の動きや頷きなど、言葉以外のコミュニケーション情報(非言語シグナル)を可視化しています。また、小型のウェアラブルセンサーのため、被験者はデータ収集されていることを意識することなく、自然なコミュニケーションを続けることができます。私たちはMIT Media Labの「Open Badges」をベースに、100名規模でデータを収集できるように変更しました。以下、私たちが開発したOpen Badgesを「バッジ」(図1)、データ収集・分析・可視化の機能全体を「バッジシステム」と呼ぶこととします。
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図1. トヨタが開発した「バッジ」
MIT Media LabのOpen Badgesをベースに、100名規模でデータを収集できるように開発しました
-バッジシステムを使って、どのような実験をおこなったのでしょうか?
- 光田
バッジから得られる被験者の発声の音圧と身体の加速度というシンプルなデータから、現場に役立つ情報をいかに抽出するかが課題であり、また、面白い点でもあります。たとえば、音圧データの分析では会話の量が着目されがちですが、状況によっては「沈黙の時間」も重要な指標になり得ます。
指標の具体化と価値検証をおこなうために、実際に困っている方たちのいる現場に赴き、ある一定の期間、現場のみなさんにバッジシステムを使ってもらい、意見をもらいました。私たちは「個人」と「集団」の特性に着目しており、今回は「個人」に着目した事例として社内研修におけるグループワークへの適用事例(トヨタ実施)を、「集団」に着目した事例として日常の職場への適用事例(豊田中研実施)を紹介します。
-では、「個人」に着目した社内研修におけるグループワークへの適用事例について、現場の困りごとから教えてもらえますか?
- 菅田
この社内研修は、講師1人に対し、受講生は20名ほどで、受講生は4、5名のグループに分かれ、仕事に対する心構えについて議論します。講師は社員が担当し、決してプロの評価者ではないため、一人ひとりを丁寧に、かつ、客観的に評価するには限界がありました。
そこで、受講生にバッジを装着してもらい、グループワークをおこなってもらいました。そして、バッジから収集した音圧と加速度データを分析し、図2のような受講生ごとにコミュニケーション分析レポートを作成しました。その際、多角的に受講生を評価できるよう、11の指標を考えました。
- 図2. コミュニケーション分析レポート
-コミュニケーションの指標を決めるにあたり、苦労したことはありましたか?
- 菅田
- 講師の着眼点を理解することは大変でした。一例として、「相手を尊敬しているか」という評価項目に対して、講師がどのように受講生を見ているのかを言語化し、それを定量的な指標に落とし込むのに苦労しました。結果、他者発話への頷き回数、発話の占有率、自発話時の姿勢の指標を設定しました。
-コミュニケーション分析レポートの評判はいかがでしょうか?
- 菅田
- 講師が受講生にアドバイスをするときだけでなく、受講生の職場上司にもこのレポートを提示することで、受講生のコミュニケーションの傾向について客観性を担保した説明ができるようになりました。この点が非常に好評で、受講生のコミュニケーション能力向上に大いに役立っています。
-次は、豊田中研での適用事例を教えてください。「集団」に着目した事例ですね。
- 長屋
- はい。豊田中研では、職場での日常のコミュニケーションを可視化するために、アドミ部門約100名の従業員に約3ヶ月間バッジを装着してもらい、勤務中のコミュニケーションデータを収集し、うち分析可能な2ヶ月間を切り出し、可視化しました。
-どのような可視化をしたのですか?
- 長屋
- 一例をあげると、「誰と誰がどれだけ会話したか」という二者間の会話時間をもとに、コミュニケーションネットワークを作って分析しました。図3に、2ヶ月間におこなわれたすべての会話にもとづくコミュニケーションネットワークを示します。ひとつの〇がひとりの人を表します。
- 図3. 2ヶ月間のコミュニケーションネットワーク
〇の直径 : 発話時間、線の太さ : 二者間の会話時間、色 : クラスタリング結果
- 長屋
- このコミュニケーションネットワークより、社会ネットワーク分析の分野で用いられる指標、たとえば「媒介中心性」という指標を算出することで、職場のコミュニティ間の情報の仲立ちをしている人がわかります。図4に、時期による媒介中心性の変化を示します。左が前半の1ヶ月、右が後半の1ヶ月です。図中のオレンジ色の矢印で示している、ある人の媒介中心性が、実験の前半では他を圧倒する高い値なのですが、後半では他のマネージャたちに紛れています。
- 図4. 媒介中心性の変化(左 : 前半の1ヶ月、右 : 後半の1ヶ月)
縦軸 : 媒介中心性、横軸 : クラスタリング係数、色 : 所属組織、〇 : 各部署のマネージャ
-何が変わったのでしょう?
- 長屋
- それぞれの時期のコミュニケーションネットワークを図5に示します。図5からは、後半に先ほどの媒介中心性の高い人を含む数人の新たなコミュニティ(図5中、青色)が発生していて、このコミュニティが新たな情報の仲介役となっている様子が見てとれます。情報が流れる経路が分散したといえるのでしょうね。
- 図5. コミュニケーションネットワークの変化(左 : 前半の1ヶ月、右 : 後半の1ヶ月)
オレンジ色で縁取りした円 : 図4の矢印で示した人
-なるほど、集団のコミュニケーションの一端が見えた気がしました。他にはどんな可視化をされましたか?
- 長屋
- 会議室内のコミュニケーションを詳細に分析しました。通常の会話だと、「どこからどこまでが一連の会話か」という判断はなかなか難しいですが、会議室でおこなわれる会議や打合せであれば、始まりと終わりが比較的わかりやすいと考えました。豊田中研ではOutlook上で全員のスケジューラが確認できるので、参加者の承諾を得てスケジューラから予定データを取得させてもらい、会話データとの紐づけをおこないました。2ヶ月間で3,000件を超える会議や打合せを抽出し、分析しました。
-会議室でおこなわれる会話といっても、正式な会議からチームの打合せ、雑談などいろいろ想定されますよね。どういう場合に役立つのでしょうか?
- 長屋
- 実は、そこが私たちの悩みどころでした。試行錯誤の結果、これだ!と思ったのが上司(マネージャ)と部下(メンバー)の1on1の会話です。そこで、スケジューラの予定のタイトルに「1on1」と明示している打合せを抽出しました。例として4件の1on1の分析結果を図6に示します。
- 図6. 4件の1on1におけるマネージャとメンバーのコミュニケーション
左上 : 発話時間、右上 : 発話潜時†、左下 : 発話回数、右下 : 発話密度‡、赤丸 : マネージャ
(† 発話を始める前に続いた沈黙時間、‡ 発話時間を発話回数で割ったもの)
- 長屋
- 図6の①②のケースでは、マネージャがメンバーより多く発話していることがわかります。1on1では、「上司は傾聴に徹し、なるべく部下に話させるようにすべき」と一般的にはいわれていて、目安として「部下が8割、上司が2割」などとされています。ところが分析してみると、実際にはなかなかそうなっていない場合が多いようです。一方、③④のふたつのケースはマネージャが共通なのですが、いずれもメンバーより発話が少なくなっています。つまりセオリー通りの1on1になっているわけです。③④のケースでは、沈黙時間が長いことも特徴です。つまりこのマネージャは沈黙を厭わず意識的に発話を控えているということがいえそうです。
-この結果は、マネージャ本人にお伝えしたのですか?
- 長屋
- 協力いただいた約100名の従業員には、終了後に職場ごとに説明会を開いて、取得したデータの分析結果をフィードバックし、わかったことを共有しました。その際、この1on1の結果についてもマネージャにお伝えしたところ、発話の多いマネージャは「確かにできていなかったかも」と反省の弁を述べられ、発話の少ないマネージャは「そうなの?」とあまり気に留めていない様子でした。
-なるほど。一口にコミュニケーション分析といっても、いろいろな切り口で分析できるものなのですね。最後に今後の展望について教えてください。
- 光田
- コミュニケーション特性(リーダシップなど)や心理状態(ネガポジなど)と、バッジシステムから計算できる指標との相関関係を明確化することが研究課題となります。また、非言語シグナルとコミュニケーションとの関係は、人が有する社会性の起源探求やメンタルヘルス、ロボット、教育などへの応用など、学術的にも興味深いテーマです。また本サイトの別記事にある「Genki空間®」において、植物の緑色の効果測定にも活用する予定です。
著者
長屋 隆之(ながや たかゆき)
1991年豊田中央研究所入社後、エキスパートシステムの開発を経てQRコードの開発に従事。主にQRコードの誤り訂正機能の実装・評価やコードの符号化・復号プログラムの実装を担当。現在はバッジを活用したコミュニケーション解析に加え、Well-beingに関連する研究テーマに従事。
光田 英司(みつだ えいじ)
2016年トヨタ自動車入社。大学院時代は宇宙物理学を専攻。トヨタでは材料開発のための分子シミュレーションに従事後、「バッジプロジェクト」のリーダーを担当。研究対象として宇宙(パーセク)→分子(オングストローム)→人(メートル)とスケールを渡り歩く好奇心旺盛な性格。現在は、情報学・心理学にもとづくサービス科学研究のマネジメントに従事。
菅田 光留(すがた ひかる)
2007年トヨタ自動車入社。大学院時代は情報理工学(制御理論)を専攻。トヨタではロボット開発をはじめとしたR&Dや新事業企画に従事。現在はシリコンバレーに拠点を置くToyota Venturesに出向をし、最先端の技術を持つスタートアップとトヨタとのシナジー創出に取り組んでいる。
参考資料
*1 | K. Yano, S. Lyubomirsky, and J. Chancellor, Sensing happiness: Can technology make you happy? IEEE Spectrum, pp. 26–31, Dec. 2012. |
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*2 | Open Badges, MIT Media Lab |
*3 | Oren Lederman, Dana Calacci, Angus MacMullen, Daniel C. Fehder, Fiona E. Murray, and Alex "Sandy" Pentland, 2016. Open Badges: A Low-Cost Toolkit for Measuring Team Communication and Dynamics. SBP-BRiMS, IN_105. |
本件に関するお問い合わせ先
- 未来創生センター
- メールアドレスfrc_pr@mail.toyota.co.jp